祭神 多田満仲公(ただみつなかこう)
ご利益 勝運、家運隆昌、厄よけ 他
参拝形式 二拝二拍一拝
境内末社 ・稲荷神社
御祭神:宇迦之御魂大神・保食命(うかのみたまのおおかみ・うけもちのみこと)
・榛名神社
御祭神:火産霊神・埴山毘売命(ほむすびのかみ・はにやまひめのみこと)
・御嶽神社
御祭神:櫛真知命(くしまちのみこと)、
配神:大己貴命・少彦名命(おおむなむちのみこと・すくなびこなのみこと)
・阿夫利神社
御祭神:大山祇命(おおやまつみのみこと)
例大祭 八月二十六・二十七
HP http://tadajinja.tokyo/
住所 東京都中野区南台3丁目43番1号
多田神社

多田神社

多田神社は、旧雑色村の鎮守社です。
源義家が祖神たる満仲公を常日頃崇拝して守護をいただいた事を感謝し、満仲公祠を雑色村に建てたことにはじまったとされています。
以前は稲荷神社と合祀されていましたが、現在は稲荷大神を分離奉斎しています。

 

 

 

多田神社

多田神社

以前祭礼は川島の氷川神社と一年交代で大祭をもち、舞台や芝居役者を招いて盛大に行い、村人の最高の楽しみであったとのことです。

 

 

 

 


中野区教育委員会の発行している「まつりと講」には、
宮司さんの話として、以下のように書かれていました。

出典:まつりと講

この満仲公は大変潔癖な方だったようで、普通の神社ではお宮参りといえば、三十日めか三十三日めですが、多田神社では五十一日めだそうです。
それは、その日まで汚れがとれないということなのだそうです。
厳しいだけに霊験あらたかな神様ともいえるのでしょう。


神社名鑑(昭和三十七年 十月 印刷、昭和三十七年 十一月発行)には下記のように書かれています。

出典:神社名鑑

【由緒】
祭神は清和天皇の御曾孫多田満仲公である。
寛治六年(1092)源義家、頼家父子が前九年、後三年の両役に奥羽の地におもむき、その凱旋の帰途、祈願達成の報賽として大宮八幡宮に神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立するとともに、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に、日ごろ淑敬する満仲公の祠を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられてきた。

なお、江戸時代には稲荷大神を合祀し、多田権現稲荷合社と奉称し、のち境内末社に稲荷大神を分離奉斎した。

慶長二年(一五九七)社殿を再建、さらに江戸後期の文政年間(一八一八‐三〇)修復を加えた。
明治一四年改築し、また明治四十四年にも改築したと社史に記してある。


中野区誌には下記のように書かれています。

出典:中野区誌
當神社は舊雜色村の鎮守社にして、祭神は淸和源氏の始祖六孫王經基の長子、多田滿仲公を祀る、維新前は新義眞言宗寶仙寺末、寶福寺別當職として奉仕せり。
~中略~
古來境内樹木鬱蒼として神威甚だ荘嚴なりしが、老木年を逐うて子凋し、神殿も亦た朽損せしかば、慶長二年村民相謀りて再建し、後文政年間に至り修繕を加へたりと云傳ふ。

明治十二年七月十六日社格、村社に列し、同十四年本殿及び拜殿を改築し、後又四十四年さらに社殿を改築す。
同四十年五月四日神饌幣帛料供進神社に列し、同四十一年十二月六日會計規則適用の儀指定せらる。
~中略~
社殿は高く南向して建つ、其の四周は松杉楓槻等林立し、古木亦多く風趣極めて淸閑なり。


多田神社 由緒碑

多田神社御由緒

御祭神
贈正一位鎮守府将軍 多田満仲公

満仲公は第五十六代清和天皇の御曽孫多田源治の祖神である
幼少より文武両道に秀で 国家に貢献されたる偉勲功績は わが国史に燦然として輝き
武門の棟梁たる勅諚を賜り国家鎮護の大任を果されたるのみならず 或いは沼地を開拓して
広大なる田畑を造成し 或いは河川を改修して農耕の拡大に寄与し 併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた

またその威力は関東に及び 特に雑色村の文化向上に尽くされた実績は尠少ではない
仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった その第二子は歴史上著名な賴光公であり
第四子賴信公は平忠常を討ち 関東を平定した

続いて賴義 義家の父子二公は前九年 後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴き
その凱旋の帰途 寛治六年(一〇九二年)祈願達成の奉賽として 大宮八幡宮に神鏡を献じ
別当宝仙寺を建立すると共に 大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色村の鎮守社として
住民に崇敬せられて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている
新編武蔵風土記稿には「多田権現稲荷合社」と記されている

慶長二年社殿を再建 更に江戸後期の文政年間修復を加えた 明治十四年改築し
また明治四十四年にも改築したと社史に記してあるが 太平洋戦後 氏子の急増により
昭和三十五年に社殿を改築したのが現在の社である

昭和五十四年八月吉日
多田神社宮司 細野喜八 記



多田神社 立て札

雑色村と多田神社
現在の南台の地域は、古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。
そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在に至っています。
当社は、約九百年前、寛治六年(一〇九二)源義家(みなもとのよしいえ)が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣(さんけい)のおり、先祖多田満仲公を奉祀(ほうし)したことにはじまると伝えられています。

したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡とのつながりがとりわけ深く、天正十九年(一五九一)の検地帳にも「多東群大宮之内雑色村」と記され、大宮領に含まれていたことがわかります。
また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社~雑色地域の間に通じていたともいわれています。

「雑色」とは、皇室の文書や道具類を収める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起こりであるとする説があります。

昭和五十八年三月

中野区教育委員会

多田神社 狛犬 左 明治十四年造立の狛犬一対は、
芝二本榎一丁目の
塚本福次郎の作であるとのことです。

 

 

 

多田神社 狛犬 右

 

 

 

 


多田神社 絵馬堂 絵馬堂

 

 

 

 

多田神社 絵馬堂

 

 


多田神社 稲荷神社摂社 多田稲荷神社

多田神社の鬼門を守り、衣食住という日常生活を守護される神で、江戸時代には多田権現稲荷合社として祀られていました。

 

 

 

多田稲荷神社前にある手水鉢。
慶応三年(一八六七)。四ツ谷仲町 願主武蔵屋源右衛門と書かれています。


●三社合祀「榛名神社・御嶽神社・阿夫利神社」

摂社「榛名神社・御嶽神社・阿夫利神社」・榛名神社
御祭神:火産霊神・埴山毘売命(ほむすびのかみ・はにやまひめのみこと)
かまど(台所)とご不浄(お手洗い)を守る

・御嶽神社
主神:櫛真知命(くしまちのみこと)
配神:大己貴命・少彦名命(おおむなむちのみこと・すくなびこなのみこと)
火災・盗難除けの神として信仰が厚い
榛名神社・御嶽神社・阿夫利神社・阿夫利神社
御祭神:大山祇命(おおやまつみのみこと)雨降山とも呼ばれ、雨乞いの神である

※引用:多田神社公式サイト

 



中野区南台 多田神社