祭神 保食命
※[同一説]宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたま)
ご利益 五穀豊穣、商売繁盛 他
参拝形式 二拝二拍一拝
総本社 伏見稲荷大社【京都府京都市伏見区】
住所 東京都中野区中央2-8-24

中野区 中央2 白玉稲荷神社中野区中央2丁目にある白玉稲荷神社は、もとは宝仙寺の境内にありましたが、明治維新後の神仏分離の際に分社されました。

中野町誌の「塔の山公園」のページには、三重の塔の説明や白玉稻荷社の場所等、下記のように書かれています。

出典:中野町誌「塔の山公園のページ
更に西寄に馬頭觀世音碑を建つ、明治三十一年戊戌年一月十五日、中野村馬持中と刻めり、
其の頃は毎年の如く村内の馬持總出にて、各自愛馬を美裝して索き來り、
園内を乘廻り頗る賑ひたるよし。

境外、西南の方に白玉稻荷社を祀る。
其の東北隅に寶永年代の庚申塚あり、香華常に絕へず。

※上記明治三十一年「馬頭觀世音碑」は現在は失われているようです。
※庚申塔(石棒さま)中野区公式ホームページ
※宝仙寺三重塔跡:まるっと中野のサイトへ

▼出典
中野町誌(著者 中野町教育会 編、出版者 中野町教育会、出版年月日1933)の「神社表」には、
祭神「保食命」との記載があります。

※町名が古いため、下記の表を参考としてください。

町名(1963年現在) 町成立直前の旧地名 町の成立年 町の廃止年 現町名
塔ノ山町 中野町中野 1931 1967 中央1・2

※中野区の町名 Wikipedia

中野区 中央2 白玉稲荷

中野区 中央2 白玉稲荷

 

 

 

 

 

白玉稲荷 神狐 新 左 白玉稲荷 神狐 新 右



中野区 中央2 白玉稲荷裏また、白玉稲荷神社裏にある石の鳥居には「奉納 歳豊饒 小下中」「明治十四年 巳十月」願主として浅田甚右ヱ門以下五十人の氏名が刻まれています。

書は浅田吉太郎を介して文学博士の南摩綱紀の依頼によって、成瀬大域が書いたもので、風流な味わいのある名筆と言われています。

 

柵の中には神狐と、かつて若者が
力比べをしたと思われる力石、ほか常明灯、鳥居などが見えます。

白玉稲荷 神狐 古 左

白玉稲荷 神狐 古 右

力石2

 

 

 

 

灯篭と神狐左灯篭と神狐右力石1

 

 

 

 

灯篭1 灯篭2 神狐下神紋

 

 

 

 

白玉稲荷神社 旧鳥居 白玉稲荷神社 旧鳥居右 白玉稲荷神社 旧鳥居左

 

 


中野区 中央2 白玉稲荷 立て札立て札には下記のように書かれています。

白玉稲荷神社の鳥居(しらたまいなりじんじゃのとりい)

白玉稲荷神社は、もとは宝仙寺境内(けいだい)にありましたが、
明治維新後の神仏分離の際にここに分社され、以後この地であがめられてきたやしろです。

この石の鳥居には、「奉納 歳豊饒 小下中」「明治十四年 巳十月」、そして願主として
浅田甚右ヱ門以下五十人の氏名が刻まれています。

青梅街道に面した家いえは江戸時代末期、半商半農の生活を営んでおり、
問屋場の置かれた街道筋には人家も多く、村内は上・中・下の三宿にわけられていました。

鳥居に刻まれた「小下中」というのは、下町をさらに大・小にわけたうちの小下組中という意味で、
この近辺が小下に属していたのでしょう。

この文は、南摩綱紀の依頼によって成瀬大域が書いたもので、
その書風は、区内の金石文の中でも風格のある名筆といわれています。

この鳥居に刻まれた金石文によって、地名の移り変わりがわかるとともに、
この地に住んでいた有力者たちの姿を想像することができます。
昭和五十八年三月

中野区教育委員会


白玉稲荷神社入り口にある馬頭観音。
年代:文久二年(1862)二月吉日
正面には、हां(カーン(凡字)) 本尊馬頭観音(弘法大師)、
本山に誰が植ける花なれや春こそたおれ手向けにぞなる
右に、文久二壬戌年二月吉日
左に、先祖代々

上記のように書かれているとのこと。
※出典:हां(カーン)Wikipedia

馬頭観音右

馬頭観音斜

馬頭観音正面