祭神 素戔嗚尊/須佐之男命(すさのお)
摂社 御嶽神社(みたけじんじゃ)、日本武尊(やまとたけるのみこと)。
稲荷神社、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
ご利益 厄除、除災招福、武運長久、縁結、安産 他
参拝形式 二拝二拍一拝
祭儀 例大祭 九月第二日曜日
由緒 太田道灌が文明元年(1469年)に大宮氷川神社より勧請し創建したと伝えられている
住所 東京都中野区本町4-10-3

素戔嗚尊/須佐之男命

本郷氷川神社

本郷氷川神社

中野区本町にある本郷氷川神社は、文明元年(1469)に、太田道灌が江戸城築城の鎮護のため大宮氷川神社より勧請し、創建したと伝えられています。

江戸期には旧本郷村の鎮守であったとのことです。

 

 

本郷氷川神社

 

 

 

 

 

本郷氷川神社本郷氷川神社本郷氷川神社 賽銭箱

 

 

 

 

東京都神社名鑑には下記のように書かれていました。

出典:東京都神社名鑑
・由緒
文明元年(一四六九)太田道灌が江戸城を工築するにあたり、
鎮護のため武州大宮氷川神社勧請し方斎せられた。
太田家崇敬厚く、例大祭には幣帛の寄進があった。
文明九年(一四七七)道灌が石神井、練馬の両城を攻略するにあたり、
戦勝を祈願し社頭に杉一株を献植したが、惜しくも後年落雷のため枯亡してしまった。
道灌の凱陣後、戦勝を祝ぎて社殿を修復した。
以来、当本郷村の鎮守社として、氏子の崇敬厚く奉られている。
・戦後の歩み
昭和二十年五月の戦災により、社殿ならびに建造物は全て焼失した。
すぐに仮本殿のみ建立し奉っていたが、氏子中協議の結果、昭和三十年九月に御社殿、同三十三年九月に神楽殿および社務所を新築し、今日に至る。

出典:鍋横区民活動センター
昭和20年5月25日の大空襲によって、社殿その他の建造物を失ってしまったが、昭和30年9月に社殿を再建し、昭和33年9月に神楽殿と社務所を新築しました。

※本郷村
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)
現在の中野区の区域は、かつては武蔵国多摩郡に属し、中野村、本郷村、本郷新田、雑色村、新井村、上沼袋村、下沼袋村、上鷺宮村、下鷺宮村、江古田村、片山村、上高田村の12村があった。このうち、本郷新田は明治時代初期に本郷村に編入され、片山村は明治13年(1880年)、江古田村に編入されている。これらの村は明治2年から4年(1869 – 1871年)までは品川県に属していた。

境内の狛犬は細工が丁寧で、四谷塩町二丁目の石工本橋吉兵衛の作です。
また、授乳中の姿をしているため、子授り・安産を祈願する参拝者があとを絶たないとのこと。



本郷氷川神社 狛犬 授乳

 

 

 

 

 

狛犬 狛犬

 

 

 

 

 

 


平成十年に新しくなった鳥居。下記にある文政五年の銘がある鳥居は、区内で3番目に古いものです。

本郷氷川神社 鳥居

本郷氷川神社 鳥居 神額

 

 

 

 

 

石柱

文政五年壬午五月吉日 京橋 願主 治郎吉

左 : 現在は使われていない文政五年の銘のある鳥居。

 

 

 

 

燈籠石碑

 

出典:鍋横区民活動センター
南の道に面した鳥居には、「文政五年壬午五月吉日 京橋 願主 治郎吉」と刻まれていますが、この次郎吉は、義賊として有名なねずみ小僧ではないかと言われています。


境内社 御嶽神社境内社の御嶽神社。

立て札には
「祭神:日本武尊。武州御嶽神社より勧請してここに祀る」
と書かれています。

境内社 御嶽神社立て札

 

 


社前に奉納されている神狐には、嘉永元年(1848)銘には「とんぼ・豊年」などが見られます。
また「坂東彦三郎、坂東亀三郎」の名のあるものがあり、
芸能界や花柳界の信仰を集めていたことをうかがわせています。

本郷氷川神社 境内社 稲荷神社 中央※摂社中央の稲荷社

 

 

本郷氷川神社 境内社 稲荷神社本郷氷川神社 境内社 稲荷神社2

 

 

 

 

 

本郷氷川神社 境内社 稲荷神社 左※摂社左の稲荷社

 

 

 

 

本郷氷川神社 境内社 稲荷神社 中央2神狐左 神狐右

 

 

 


本郷道改修記念碑

明治三十五年九月二十四日
東京府知事
男爵千家尊福書

本郷道改修記念碑_立て札

 

 

 

 

 

本郷道改修記念碑は、区登録・指定文化財にされ、碑文と解説が中野文化財No.4「なかのの碑文」に掲載されています。
中野区登録文化財・指定文化財一覧

立て札には以下のように書かれています。

本郷道改修記念碑

この記念碑には、「本郷道は水車場へ往復する車馬のため道路が損壊し難儀はたとえようもなかった。
そこで有志土方平吉が発起人となり、賛成者左記の八名と水車所有者、近辺の住民との寄付金によって材料に花崗岩(かこうがん)などを使い、改修工事は、明治三十三年四月から二年余りで完成した。
立派な道路で便利になったので、その次第を刻み、後世に伝えることにした。」
大意このように記されています。

当時の豊玉群群長の丸山良香が撰文し、東京府知事千家尊福の筆になる碑文で、
この改修が二年四か月にわたる、当時の大事業であったことがわかります。

この道は、本郷村の氷川神社の傍(かたわ)らをとおる旧道で、村の中央を東西に貫(つらぬ)き、西願寺裏から本郷水車場(現、本町一丁目1番2号)へ製粉、搗立用の穀物を運ぶ重い馬車や荷車が通いました。

発起人以下賛同者のほとんどは、当時の村の有力者です。
いま本郷村の鎮守(ちんじゅ)であった氷川神社の境内に立つこの顕彰碑は、旧村の生活を物語る名残りといえましょう。

昭和五十八年三月

中野区教育委員会


本郷氷川神社神楽殿

本郷氷川神社神楽殿

 

 

 

 

 

 

本郷氷川神社 手水舎 本郷氷川神社 手水舎本郷氷川神社の手水社です。

 

 

 


 
境内南西にある三体の庚申塔について、中野区教育委員会の刊行物
「路傍の石仏をたずねて」には下記のように書かれていました。

出典:路傍の石仏をたずねて
もともとこの地域にはいく体かの古い庚申塔が集められ供養されていたが、いずれも破損がはなはだしいため、新しく石造を彫り古いものを一括供養したものであろう。
●完全な形のものは青面金剛でもっとも新しく昭和四十五年一月二十一日に再建され安置されたものである。
●ほかの江戸時代のものと思われる一体は、半ば砕かれ、台座にある三猿のみは認められるが、他のことはまったくわからない。
●また、中央の一体は三分の二ほど破損されているため、これも詳細に説明することができないが六臂の像であること、邪鬼を踏み、三猿があることはわかるが、彫刻年代、講名などまったく不明である。

庚申塔

庚申塔
(右面)昭和四十五年
(青面金剛神像)

庚申塔

左上の部分が欠失している
(青面金剛神像)

庚申塔

上半分が欠失している