祭神 須佐之男尊(すさのおのみこと)
ご利益 厄除、除災招福、武運長久 他
例大祭 九月第二日曜日
参拝形式 二拝二拍一拝
境内神社 ・稲荷社:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
・八幡神社:応神天皇(おうじんてんのう)
・天王社:須佐之男尊(すさのおのみこと)
・天神社
住所
上高田氷川神社

上高田氷川神社

この氷川神社は、上高田一円の鎮守で、かつて太田道灌はしばしばこの社に詣で、松一株を植栽したと伝えられているとのことです。

鎮座の年代ははっきりしていないとのことですが、昔からの言いつたえでは、享徳二年に武蔵大宮氷川神社より勧請し、小社を建てたのが起源と言われています。

 

 

上高田氷川神社

上高田氷川神社

また、この社には昭和8年9月に納入された都内でも有数の白木造りの大神輿があり、第二次世界大戦の空襲も受けずに残った貴重なものであるとのこと。
この大神輿が見れる例大祭では、300年の歴史がある「上高田ばやし」が氏子によって奉納されています。
中野区町会連合会/上高田のイベント情報

 

 

 


東京都神社名鑑には下記のように書かれていました。

由緒
当氷川神社は上高田一円の鎮守として、享徳二年(一四五三)土地の者たち須佐之男尊の御神徳を慕い、武蔵大宮氷川神社より勧請したもので、長禄元年(一四五七)太田道灌江戸城を構築するにあたり、しばしば当社に詣で、松一株を植栽すると伝う。
また、正保年間(一六四四-四八)代官野村彦大夫為重社殿を修復すという。
大正十一年七月鈴木喜太郎氏百三十五坪を、鈴木奥太郎氏四坪三合を寄進して境内を広げ、昭和十六年には水舎・鳥居・石燈籠・天水版・狛犬等の奉献があり、神威風致を改善し、氏子一同神社を中心として親睦と融和につとめている。

戦後の歩み
当社は幸に戦禍をまぬかれたものの、久しい戦のために荒廃した境内の整備に努め、氷川講より氏子会そして氷川神社崇敬会と名称を変えながらも、鈴木新作責任役員を会長として、総代一同心を合わせ会の発展に努力し、神楽殿の新築、本殿水舎の修復、境内周囲の土留ならびに柵等の工事に、神輿庫・神楽殿・水舎の屋根を銅板に葺替える等、面目を一新し、上高田一円の氏神として神威をととのえつつある。

中野區誌下巻には下記のように書かれています。

~略~
明治四十一年十二月二十六日會計規則適用を指定され、昭和十一年九月二日、無格社より村社に陞され、同月八日、神饌幣帛料供進神社に指定された。


上高田氷川神社 由緒書境内に掲げられた由緒には、下記のようにかかれています。

上高田氷川神社の由緒
鎮座地 中野区上高田四丁目四十二番
祭神 素戔嗚尊
祭儀 例大祭 九月
社殿並びに境内建物
本殿、幣殿、拝殿、四社様、神輿庫、神楽殿、手水舎、社務所
境内地 一、八五七㎡(五六二坪)
氏子数 九六〇〇世帯

由緒
当、氷川神社は上高田一円の鎮守として享徳二年(一四五三)素戔嗚尊の御神徳を慕う土地の人々が、武蔵国一の宮氷川神社より御神霊を勧請し、お社を建てたのを嚆矢といたします。
長禄年間(一四五七~六〇)太田道灌はしばしば当社に詣で、松一株を植栽したと伝えられております。
この松は目の高さ幹回り約四mの御神木となり大切に保護されておりましたが、昭和十二(一九三七)枯木となりました。

また、正保年間(一六四四~四八)に代官野村彦大夫為重が社殿の修復をしたと江戸時代『武蔵風土記』に記されております。
当時氏子は100戸、境内地の面積は四七〇㎡(一四二坪)の小規模な神社でありましたが、大正十一年(一九二二)氏子より土地の寄進を受け、境内地を広げ現在の形態へと発展いたしました。
大正十二年(一九二三)に至り社殿新築の計画が立案され、直ちに着工、大正十五年十月(一九二六)遷座祭が執り行われ、今日の氷川神社の姿がほぼ完成いたしました。
また昭和十年以降、手水舎、鳥居、石燈籠、天水版、狛犬等の奉献がありました。
当神社は不幸な太平洋戦争による戦禍はまぬかれたものの、戦後の混乱の中にあって境内の整備はゆきとどかぬままでありました。
幸い敬神の念厚い氏子により昭和二十九年(一九五四)には神楽殿が新築され、以後大祭の復活など各種の復興整備が進められました。
昭和六十三年(一九八八)に宿願の社務所が完成し、上高田一円の鎮守として神威をととのえるに及んでおります。

平成五年六月吉日
上高田氷川神社


上高田氷川神社 境内神社境内神社
・稲荷社:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
商売、五穀豊穣
・八幡神社:応神天皇(おうじんてんのう)
家内安全
・天王社:須佐之男尊(すさのおのみこと)
病魔退散
・天神社
学問

上高田氷川神社 境内神社 神額


上高田氷川神社 狛犬 吽

 

 

 

 

 

上高田氷川神社 狛犬 阿


上高田氷川神社 鳥居手前にある一の鳥居には「明治十五年六月吉祥」

奥にある鳥居には「昭和十三年一月建之」と書かれています。

 

 

 

 


上高田氷川神社 崇敬会復興記念碑

 

 

 

 

 

崇敬会復興記念

上高田の産土神 素戔嗚尊を祀る氷川神社も激しく流れる卋相を受け 衰微し民心の荒廃を映せり 代々の有志奉賛護持の願いを込め氷川講 氏子会と心を新たにせしも 次々に違和挫折す 然れども時を得て同信の者起ち崇敬会を組織し 多くの協賛を得て復興に努む 刻僅か十年にして誠意唸り 諸殿の屋根 銅板葺替 神域周囲の鉄柵新設 階段 側壁の土留改修等行いて旧に復し 諸祭事も隆盛に導けり 更に志を継ぐ者出でて神社の発展並に人類の平和と繁栄どと願わんのみ 茲に設立十周年に当り 功績多き人々の名を記し永く記念に残さん

昭和六十年十一月吉日

上高田氷川神社崇敬会

上高田氷川神社 氷川神社改築記念碑氷川神社改築記念

 

 

 

 

 

上高田氷川神社 社務所新築記念碑社務所新築記念之碑

 

 

 

 

 

上高田氷川神社 神楽殿新築記念碑神楽殿新築記念


上高田氷川神社 表忠碑表面には
「皇太子殿下御降誕記念」
陸軍大臣正三位勲一等功四級林銑十郎書

裏には
日露戰役戰死者 昭和九年十月建之
支那事変大東亜戰爭戦没者

と書かれています

 

上高田氷川神社 平和碑

 

 

 

 

 

平和の礎

昭和十二年七月八日、盧溝橋に端を發した支那事変も十六年十二月八日 大東亜戰爭へと拡大し前後九年の長きに亘りし戰も二十年八月十五日遂に終戰となり もつて今日に至る。

往時を回想すれば感慨に堪えざるものあり。

ここに終戰に二十周年を迎うるに当り われら有志相計りこの間の戦役者を顕彰し、且つ永遠の平和を祈念するためわが上髙田に現住し、本籍を有する者の家族の英靈九十七柱の芳名を表忠碑に刻し、更にこの副碑を建立し平和の礎として永くその勲を伝えんとす。

昭和四十年八月十五日

上髙田英靈顕彰協賛會建立


上高田氷川神社 燈籠左裏には

紀元二千六百年記念

昭和十四年九月

と書かれています

 

 


上高田氷川神社 燈籠右裏には

紀元二千六百年記念

と書かれています


上高田氷川神社 燈籠左

 

 

 

 

 

上高田氷川神社 燈籠右


上高田氷川神社 手水舎手水舎

手水鉢には、文政四 辛巳 歳九月吉日 と書かれています。


・上高田氷川神社