祭神 宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたま)
ご利益 五穀豊穣、商売繁盛 他 ※推察
参拝形式 二拝二拍一拝
住所 東京都中野区野方2丁目27-15
三谷稲荷

三谷稲荷

三谷稲荷神社の中にある石碑には、この神社の起こりについては詳しくはわかっていないが、江戸時代と推測されているとの記載があります。

また、この辺りは昔三谷と呼ばれていたため、三谷稲荷と呼ばれているのではないかと考えられます。

社地内には御神木として椿があったが、昭和二十六年に枯れてしまったのとのことです。

 

三谷稲荷

三谷稲荷

※三谷の名前について、現在は野方2丁目32番にある三谷橋にこの名前が残っています。

沼袋村江戸文化年間の古地図
出典:なかのの地名とその伝承 中野区教育委員会


神社内の石碑には以下のように書かれていました。

三谷稲荷 石碑三谷稲荷 石碑裏

 

 

 

 

 

三谷稲荷の沿革
当社の創祀は不詳なれど江戸時代と推測され、部落民の崇敬篤き社なりしと伝う
明治十二年二月初午よりの祭事は秋元久太郎 秋元七十五郎 秋元藤吉 秋元兼吉 秋元イチ 矢島吉五郎 矢島金次郎 芹田徳蔵 矢島政右衛門の九名より成る講中が執行せし事資料に依り明白なり
逐年の祭事は今なほ子孫が継続す
抑々稲荷社の御祭神は宇迦之御魂神と稱し五穀豊穣を司る神であり米食を主とする日本人が稲作の豊かなるを祈願し農耕神として信仰なしたるが 時代の推移と共に崇敬するもの多くなり 江戸時代に於ては商業神 屋敷神として盛に勧請され農家のみの信仰対象に止まらず広範なる産業神として椿一株樹立致せしが 昭和二十六年惜しくも枯損なし伐採せるも 現今その後葉が芽を出したり
昭和四十年二月初午の日に現在の崇敬者講中赤心会議の末新社殿を奉納す
昭和四十年二月初午 三谷講中



三谷稲荷 手水鉢・手水鉢

横には昭和四十年二月初午と書かれているようです

 

 

 

 


三谷稲荷 鳥居三谷稲荷 鳥居裏

 

 

 

 

書いてある文字は読めませんでした。

 



三谷稲荷社