祭神 | 菅原の道真公(すがわらのみちざねこう) 相殿:保食神(うけもちのかみ) |
ご利益 | 学業成就・子の成育・家内安全・家門隆盛・事業繁栄・工事安全・交通安全・厄除 |
例大祭 | 9月25日 |
参拝形式 | 二拝二拍一拝 |
境内社 | ・稲荷神社:倉稲魂命(うがのみたま) ・大鳥神社:日本武尊(やまとたけるのみこと) ・御嶽神社 |
HP | http://araitenjin.com/ |
住所 | 〒165-0026 東京都中野区新井4-14-3 |
中野区新井にある北野神社は、新井天神とも呼ばれ、新井一円の鎮守社です。
鎮座の年代は明らかでないとのことですが、別当寺である『梅照院縁起』には、1683年に「梅一株を北野天満宮に献じた」と記載があるため、その頃は既に新井の鎮守であったとのことです。
言いつたえでは、新井薬師の開祖といわれる僧の行春が、菅原道真公を祭る小祠を創建したことにはじまるとされています。
東京都神社名鑑には下記のように書かれていました。
・由緒
創建年代は詳ではないが、残存する当社別当寺である『梅照院縁起』によれば、「天和三年(一六八三)に梅一株を北野天満宮に献じた」とあるので、そのころすでに新井の鎮守であったことは疑いない。・昭和二十年戦災により建物はもとより、一木一草にいたるまで焼失したが、前宮司の努力により、ただちに復興着手し、戦中に社務所、戦後昭和二十三年九月には現本殿・幣殿・拝殿を新築し、昭和二十八年には大鳥神社を奉斎し、社頭の賑わいを再現した。
以後神楽殿・集会所・手水舎・境内の整備をなし、昭和五十年菅公千七十五年祭を記念し、社務所を改築した。
中野区史跡散歩には以下のように書かれています。
祭神は菅原道真公。新井一円の鎮守社で、昭和四年、村社に昇格したこともある。
創建の年代は明らかでないが、天正年間(一五七三~一五九一)に新井薬師の開祖といわれる僧行春が、里人と話しあって、崇拝する菅原道真公を祭る小祠を創建したと伝えられている。
新井薬師は、本社の別当であったが、明治元年神仏混洧の禁止により別当職を廃し、社号を北野神社としたのである。
~以下略~
中野區史下巻には以下のように書かれています。
北野神社 村社 新井町二九〇番地鎮座
祭神は菅原道眞公、相殿に保食神を合祀する。
舊新井村、即ち現在は新井町一圓の鎮守社である。
新編武蔵風土記稿百二十三には、天滿宮として出で、「松ノ並木アリテ物フリタル社地也」としるしてあるのみでその鎮座年代に就いては何等記載してゐない。
即ち創建年暦は明らかでないのである。
が、口碑としては天正年間、梅照院の開祖といはれる沙門行春が里人と謀つてその崇拝する菅原道眞公を祀る小祠を營んだともいはれているとゐふ。
梅照院は本社の別當であった。
明治元年別當廢し、社號を北野神社と改めた。
同四十一年一二月二十六日會計規則適用を指定され、昭和四年九月三日、社格を無社格より村社に昇せられた。
神饌幣帛料供進社に指定されたのは同月十九日である。
つづいて陸軍中將摺澤靜夫の筆に成る昇格記念碑も建設された。
社殿は神明造りで、本殿は間口一間、奥行一間、拝殿は間口四間、奥行二間、南面してゐる。
大正四年即位御大禮記念事業として社殿を改築し、昭和三年十一月、幣殿及び玉垣を新築した。
下って同九年八月、神楽殿を、同十一年九月社務所を新築して今日に及んでいる。
境内は官有地九百六坪、表参道及び神域には松・杉・欅其他の樹木繁茂し、風致の掬すべきものがある。
~略~
拝殿前の狛犬。裏には昭和二十三年 九月二十五日、奉納者名が書かれています。
一の鳥居近くの狛犬。裏には當所 奉納者名 大正十五年九月と書かれています。
・撫で牛横にある立札
「牛は天神様の「おつかい」です。ご自身の悪いところを撫でてください(よくないところ)」と書かれています。
祭礼日の酉の市では、お祭り当日は多くの参拝者で賑わうとのことです。
立札には
御祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと)
祭礼日:十一月酉の日(酉の市)
と書かれています。
■境内社の寳樹稲荷
御祭神:倉稲魂命(うがのみたま)
祭礼日:旧初午(旧暦二月最初の午の日)
境内社の寳樹稲荷
寳樹稲荷の横にある立札には以下のようにかかれていました。
江戸時代後期の文化十四年(一八七五)に板倉勝政氏により市ヶ谷の庭内に守護神として鎮守されたのがはじまりである。
平成二十七年十月、矯正研究所施設移転にともない、北野神社境内社・稲荷神社に合祀され現在に至る。
尚、本殿横の寳樹稲荷社・社号碑(背面由来書き有)は前鎮守地境内にあったものを当地に移設したものである。
由来書には下記のように書かれています。
この寳樹稲荷社は 江戸末期 文化十四年(西暦一八一七年)に 板倉勝政が 現在の東京都新宿区市ヶ谷住吉町に構えた屋敷内の 鎮守神として祀ったものである
明治八年 同地に市ヶ谷囚獄(後の市ヶ谷監獄)が設置されて引き継がれ 大正四年 同監獄が豊玉監獄(後の中野刑務所)と改称され この地に移転するとともに遷座し 昭和五十八年 中野刑務所が産廃庁になるまでの間 同所職員会等によって引き続き祭祀を行い その後 中野友の会会員など多くの奉賛者に護持され 今日に至っている
稲荷社屋根葺替工事完成を機会に 久しくその由来を伝承し 万物の安泰を弥栄を祈願するものである
※鳥居裏には大正二年九月二十二日建之と書かれています
旧中野刑務所内の法務省矯正研修所東京支部
筆者は現在も矯正研修所東京支部に寳樹稲荷があると思い、研修所の所員の方に「参拝したいのですが」と申し出たところ、現在は「北野神社」に祀られていると親切に教えていただきました。
以前矯正研修所にあった頃の写真は「あるいてねっと」に掲載されています。
■境内社の御嶽神社
祭神:大口真神
詳細が不明なため宮司さんに聞いてみたところ、御嶽神社で山の神様(大口真神)であるとのこと。
名前や重さの彫られた力石。
「中野区の文化財No.3 まつりと講」には地元の人の話として
「この石は神社の祭りのとき、村の若い者が持ち上げて力くらべをした」と書かれています。
また、力石について立札には「思いをこめて奉納された「力石」は「磐座(いわくら)」として神様が降りてこられると考えられてきました」と書かれています。
力石の中心にある石碑の内容について、横の立礼に「梅の花 匂ふあたりの夕ぐれは あやなく人にあやまたれつつ 作者 大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶあそん) (延喜二十一年~正暦二年921年~991年)」と書かれています。
この石碑の周囲にめぐらされている十三個の大きな石は「力石」といって、昔、若者たちが力くらべに使ったものです。
今日とは違い、娯楽の少なかった時代には、神社の祭礼は人々の最大の楽しみでした。
祭りの日、若者たちは大きな石を頭上に高くかかげて、その力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名を刻んで奉納したものです。
刻まれている碑文からは、新井村や上高田村から集まった若者たちが、三十八貫目余(一四三・五キログラム)~七十貫(二六二・五キログラム)までの石を持ち上げ、奉納したことがわかります。
力石の行事は、娯楽の面だけではなく、その多くが神社の境内にあることからも、本来は神事儀礼(しんじぎれい)であり、また、重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた、当時の通過儀礼のひとつでもありました。
裏には「菅公御神忌千百年記念建立」と書かれています。
裏には紀元二千六…と書かれているようですが、良く見えません…
裏には昭和二十六年二月納之と書かれています。
■北野神社(新井天神)