祭神 | 素戔嗚命(すさのおのみこと) 相殿: 櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)、 大日孁命(おおひるめのみこと)、 事代主神(ことしろぬしのかみ)、 大山祇神(おおやまつみのかみ) |
ご利益 | 厄除、除災招福、恋愛系縁結び、全般系縁結び、所願成就、金運上昇 他 |
例大祭 | 八月第四日曜日 |
参拝形式 | 二拝二拍一拝 |
境内神社 | ・津島神社 牛頭天王(ごづてんのう)、宇賀大神(うがのおおかみ)、稲荷大神(いなりおおかみ) ・御嶽神社 櫛眞知命(くしまちのみこと) ・大国魂神社(おおくにたまじんじゃ) 大国魂大神(おおくにたまおおかみ) ・宗像神社 多紀理姫命(たぎりひめのみこと)、 多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) ・三光鱗神社 三光鱗大神(さんこうりんおおかみ) |
住所 | 東京都中野区弥生町4丁目27番30号 |
氷川神社(神明氷川神社)は、旧旧雑色村、字川島の鎮守社で、村社となっています。
新編武蔵風土記稿には「この神社は氷川神明合社といい、拝殿は二間三間で東向きに建っている」と書かれていますが、鎮座年代については記載がありません。
社伝によると、文明元年(一四六九)太田道灌が武蔵大宮氷川神社より、江戸城の守り神として勧請した二社のうちの一つで、俗に二簸(にひ)川社と呼ばれました。
※もう一つの氷川神社は「本郷氷川神社」。
神社巡り 本郷氷川神社
太田道灌が植栽したと言われる老杉二株がありましたが、昭和2年に枯れてしまい、それをもって神楽殿と社務所が造られたとのことです。
境内には、疫病除けの津島神社、大国魂神社、宗像神社の合社、火伏せの御嶽社、安産・和合の神である三光鱗神がお祀りされています。
神明氷川神社の鳥居(明神鳥居)。
右柱の裏面には「昭和九年九月十六日之ヲ再建ス」
左柱裏面には「明治十二年九月前節セシ石鳥居 大正十二年九月一日ノ關東大震災ニ破損シ危險の爲メ」と書かれています。
神社名鑑(昭和三十七年 十月 印刷、昭和三十七年 十一月発行)には下記のように書かれています。
出典:神社名鑑
・由緒
文明元年(一四六八)太田道灌が江戸城鎮護のため武蔵大宮氷川神社より勧請し、以来毎年八月十五日祭日には、太田家より玉串を捧げたと伝えられる。
徳川幕府開設後は、もっぱら党地区の鎮守として崇拝されてきた。
昭和二十五年五月戦災によって一宇も残さずに灰塵に帰した。・戦後の歩み
昭和二十年仮社殿を御造営、境内の整備植樹にかかり、同二十九年九月拝殿および幣殿を再建した。
同三十二年社務所および神楽殿を、同三十三年本殿を再建し、諸設備を整え、同三十三年九月御遷座盛儀を斎行した。
同三十三年境内の一部を南部公会堂建設のため期限付で中野区に貸与した。
昭和五十八年境内外周の玉垣をつくりかえた。
中野区誌には下記のように書かれています。
出典:中野区誌
當神社は舊雜色村、字川島部落の鎭守社にして、祭神は本鄕氷川社と同じく素盞嗚尊を祀る、
維新前は新義眞言宗寶仙寺末、正藏院別當として奉仕せられ、前記本鄕氷川社と同時に、文明元年太田道灌の
江戸城鎭護の爲め創建せらるるゝ所なり。故に毎年八月十日祭日には太田家より幣帛料供進せられたるが後年其の事絶へたり、祭日も其の後變じて八月二十四日となり、
村内多田神社と一年交代にて祭禮を行ひたりと云ふ。維新後明治七年四月七日社格村社に定められ、祭日を九月十六日に改む。
同四十年五月四日神饌幣帛料供進神社に列し、同四十一年十二月二十六日會計規則適用の儀指定せられたり。
境内五百九十八坪、一帶に老樹矗々として聳へ立ち、積翠社頭を罩む、東南側社務所の松、最も雄大にして
~中略~
社殿は東向して建つ、大正十五年の改築にして、弊殿と共に結構壯麗なり。
中野区教育委員会の発行している「まつりと講」には以下のように書かれていました。
出典:まつりと講
氷川神社では、以前(といっても明治末から大正初期にかけてですが)どのように祭りが行われていたのでしょう。
当時、祭りは九月二十六に行われていたようです。
先の新編武蔵風土記稿にもあるように、多田神社と一年おきに交代で祭りをし、一方が本祭りなら、他方は陰祭りでした。
境内神社の津島神社。
●御祭神
・牛頭天王(ごづてんのう)
・宇賀大神(うがのおおかみ)
・稲荷大神(いなりおおかみ)
津島神社前の狛犬(阿型)。
年銘は明治24年四月(1891)
空襲によって火損を受けています。
津島神社前の狛犬(吽型)。
裏面には、明治廿四年 四月吉日建立と書かれています。
境内神社の御嶽神社
●御祭神
・櫛眞知命(くしまちのみこと)
境内神社の宗像神社
●御祭神
・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)
・多岐津姫命(たぎつひめのみこと)
・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
内神社の三光鱗神社
●御祭神
・三光鱗大神(さんこうりんおおかみ)
新明氷川神社境内にある百度石。
「最乘八十翁道山老納記」と書かれています。
信仰の篤い人々が百度参りに利用していたものと考えられています。
立て札には以下のように書かれています。
身内に病人がでたり、いろいろな願い事がある時、人びとは、さまざまな方法で神仏の力にすがるため祈りますが、その一つにお参りの数を多く重ねて願い事の成就(じょうじゅ)を祈る「お百度参り」があります。
これは、同じ神仏に一日百回参拝して祈るもので拝殿や本堂と、境内の特定の位置との間を人目を忍び、はだしになって百回往復し、願をかけるというものです。
この時の特定の位置に建てられた石が「百度石」です。
参拝する際、回数をまちがえないように数(かず)とりの道具がありました。
そなえ付けの札を裏返す場合もありましたが、多くみられたのは自分で「こより」を持ち、一本づつ折り曲げていく方法だそうです。
百度石は、百度参り起点の石として建てられたこともあったようで、ここに建つ百度石は、その形や大きさから、多分後者ではないかと思われます。
区内の百度石は、ほかに江古田の蓮華寺、上高田光徳院、新井薬師の境内にもみることができます。昭和五十八年三月
中野区教育委員会
狛犬の後ろには以下のように書かれています。
記念事業記
当氷川神社は、文明元年、太田道灌が武蔵大宮氷川神社より勧請奉祀したものと伝えられ、本年はちょうど五百年目に当たります。
時あたかも明治百年を迎え誠をもって「氷川神社祭神ご鎮座五百年、明治百年両記念事業」として、参集殿兼社務所の造営及び狛犬の建設を協議決定し、芽出度く完成致しました。
この記念事業の大義に奉仕した総代、世話人をはじめ高額奉納者の功績を後世に残す為、その氏名を次に列記しました。昭和四十三年十月吉日
氷川神社宮司 真壁恵愛
総代会長 神田勘十郎
戸村二郎 書
明治二十四年に奉納された燈籠。
火袋は花頭窓様に作られ、華麗な竜や雲、虎などのがほどこされています。
区内で最も装飾性の豊かな燈籠であるとのことです。
裏面には、中野上町 吉邑金重と書かれています。
神明氷川神社