祭神 | 倉稲魂命(うかのみたまのかみ) |
参拝形式 | 二拝二拍一拝 |
住所 | 東京都中野区野方1丁目5 |
妻恋稲荷は、明治の初めまでこの土地に住んでいた「矢島源左衛門家」によって祀られていました。
そのため、別名を「源左稲荷」とも言います。
現在は土地の旧家の方々が年番交代で管理している神社となっており、矢島源左衛門の一族で、信心の深かった者がこの土地を去る際、周辺の土地を人に貸し、その地代で稲荷社を管理してほしいとお願いしていったとのこと。
俗説では矢島源左衛門が亡くなった妻を偲んで妻恋稲荷を祀ったと言われていますが、文化3(1806)年に作成された「下沼袋絵図」にその位置が書かれていることから、「文化年間以前に湯島本社から妻恋神社の分霊をこの地に勧請したと思われる」とのことです。
現在初午などの神事は、沼袋氷川神社の宮司さんが執り行っています。
実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史には、以下のように書かれていました。
出展:実相院と 沼袋、野方、豊玉の歴史 矢島英雄 著
この神社の創建が江戸の文化三年以前であったことが、同年に作成された上、下沼袋村絵図(東京都立大学蔵、複製パネルが中野区立歴史民族資料館に展示されている)にその位置が稲荷社として示されていることから分かります。
そして文政年間に編纂された新編武蔵風土記稿の下沼袋村郷新橋村の条にも「稲荷社、村民の持ちなり」と記されております。
但し、その記載された位置は村つまり下沼袋村郷新橋村の北とあり、誤っております。
~中略~
この妻恋稲荷の名称より考えて、野方一丁目の稲荷社は文化年間以前にその湯島の本社の分霊をこの地に矢島源左衛門により勧請されたのだと思われます。
妻恋稲荷にある石祠。材質は溶岩であるとのこと。
裏には、大正三年二月初午と書かれています。
裏には昭和六年 十月造之
中野町 追分 石工 田中酒造三
境内の横、木造小祠内に安置されている地蔵菩薩立像。
明和三年 丙戌 年十月廿八日
慧唫襌童子と書かれているとのこと。
※明和三年(1766)
妻恋稲荷(妻戀神社)