祭神 稲荷神(五穀豊穣の神)(推定)
[同類]宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)[別称]倉稲魂命
ご利益 商売繁盛、五穀豊穣、他
参拝形式 二拝二拍一拝
住所 東京都中野区中野3-49-1
一本檜稲荷

一本檜稲荷

この一帯はかつて徳川綱吉の作った犬屋敷の一部で、
「五の御囲」と呼ばれていました。

その跡地には徳川吉宗の命により、桃の木が植えられて、桃園と言う花見の名所となりました。

一本檜神社は、その徳川吉宗が賞賛したという檜があったことが社名の由来となっていると言われています。

 

一本檜稲荷一本檜稲荷 一本檜稲荷

 

 

 

 


一本檜稲荷の由来「一本檜稲荷」の由来には以下のように書かれています。

「一本檜稲荷」の由来

江戸時代の将軍や諸大名は、放鷹(ほうよう)または鷹狩と称し、飼いならした鷹を放して小鳥や小動物を捕える狩猟を盛んに行いました。
そのため鷹匠(たかじょう)といって将軍の鷹を預かって飼いならし鷹狩に従事する専門の職もありました。
この将軍や諸大名の放鷹は、「お鷹野 」と呼ばれていましたが、後には鉄砲以外の狩猟全般のことを指すようになりました。
そして三代将軍家光 のころから、ここ中野方面での鷹狩が始まったようです。
しかし五代将軍綱吉 は「生類あわれみの令」を定め、鷹狩も廃止し、当地には広大な「御囲 」(おかこい)と呼ばれる野良犬の飼育施設が設置されました。その面積は20万坪以上といわれ、現在の「中野駅」「中野サンプラザ」「中野区役所」周辺もその敷地だったようです。
八代将軍吉宗 になると、鷹狩も復活し、享保元年(1716年)9月には中野のお鷹場も再興されました。以後、歴代の将軍はほとんど中野方面に遊猟したようです。
特に八代将軍吉宗の中野への遊猟は多く、吉宗の命によって、当地一帯は桃の木が植えられ、「桃園」と呼ばれた花見の名所となりました。

当「一本桧稲荷 」の由来については定かではありませんが、当地の長老によると遥か昔の時代、川の氾濫や飢饉の際、これを鎮めるために建立したものが始まりだったとの言い伝えがあるそうです。
もっとも、稲荷神社の総元締めである京都の伏見稲荷は穀物の神であり、農村地帯においては天災地変を無くすことがイコール豊作・生活の安定に直結するわけですから、この由来・言い伝えもほぼ的を得ているのではないでしょうか。
見過ごしてしまうほど小さな祠ですが、八代将軍吉宗が賞賛した桧(ひのき)があったとのことも、逸話として残っております。



「一本檜稲荷」が現在の場所に移される前にあった場所には、
その名残りが残っていました。

残念ながら現在の場所に移されたのはいつかについては調べられませんでした。

旧一本檜稲荷 旧一本檜稲荷 旧一本檜稲荷

 

 

 

 

旧一本檜稲荷 社標 旧一本檜稲荷 手水鉢 旧一本檜稲荷 神狐

 

 

 

 

旧一本檜稲荷 燈籠 旧一本檜稲荷 燈籠 旧一本檜稲荷 賽銭箱

 

 

 

 

旧一本檜稲荷 由来由来らしきものもありましたが、読めませんでした。

 

 

 

 


現在の「一本檜稲荷」


以前の「一本檜稲荷」