祭神 | 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) |
祭儀 | 例大祭 二月初午日 |
ご利益 | 商売繁盛、五穀豊穣、火防守護 他 |
参拝形式 | 二拝二拍一拝 |
住所 | 中野区中央2-52-1 |
明徳稲荷神社は、江戸時代に中野村の
名主を務めた堀江家の鬼門除けでしたが、
大正時代に地元の人たちが譲り受け、
現在の場所に移されました。
火伏せの秋葉神社と雨乞いの
榛名神社が合祀されています。
また、堀江家文書には、中野宿で市場の繁栄、安全のために祀った
「市神」という神社の記録があり、これが明徳稲荷神社ではないかと考えられているとのことです。
神社内の立て札には下記のように書かれていました。
この稲荷神社は、江戸時代に中野村の名主をつとめた
堀江家の敷地(約二万一千平方メートル)の東北の隅に位置しています。
東北の方角は古来、鬼(おに)や災難が入ってくるという鬼門(きもん)として忌(い)み嫌われていました。
このため、堀江家では、敷地内に神を祀(まつ)って鬼門除けとしたものです。堀江家文書によれば、中野宿で市場の繁栄と安全のために祀(まつ)った
市神という神社の記録があり、これが明徳稲荷なのではないかとも考えられます。
大正時代に地元の人達が堀江家から稲荷神社を譲(ゆず)り受け、現在にいたっています。
関東大震災と第二次世界大戦の際に罹災(りさい)しているため、
江戸時代の社殿や、古記録は残っていませんが、狐(きつね)の彫り物のある慶応(けいおう)三年(一八六七)の
手水鉢(ちょうずばち)にわずかながら往時をしのぶことができます。
この稲荷神社には、明徳稲荷のほか、火伏(ひぶ)せの秋葉(あきば)神社と
雨乞(あまご)いの榛名(はるな)神社とが祀られています。平成二年十一月
中野区教育委員会
昭和二十年の空襲によって
多くの石造物は被害を受けましたが、
この手水鉢は火損の程度が軽いようです。
慶応三年(一八六七)の銘のあるこの手水鉢は、
周囲に神狐を浮彫りした優品であるとのこと。
また、幕末頃の盛況を示しているとのことです。
手水鉢横には下記のように書かれています。
中野区文化史の中に明徳稲荷神社の水鉢は慶応三年堀江家のものと刻まれている
戦災後四十五年放置され平成三年再建した
町内の有志中俣竹太郎 難波石材 水野繁 清水隆三諸氏の心意気により
当時朝日が丘の吉田武雄氏の作で非常に難しい仕事四方ころびと言う組方です木材は会津の山栗の巨木から採ったものです
明徳稲荷神社