祭神 天神第六代坐榊皇大御神(あまつかみむつのみよにあたりたまうさかきのすめおおみかみ)
面足尊(おもだるのみこと)/惶根尊(かしこねのみこと)
ご神徳 諸産業繁栄、安産子育
ご利益 恋愛成就、夫婦和合、子育大願 他
参拝形式 二拝二拍一拝
住所 東京都中野区東中野1-15-9

東中野 第六天神社

東中野 第六天神社

第六天神社は、もともと江戸蔵前の第六天神宮(榊神社)から第六天を勧請(かんじょう)し、秋元家で祀っていた屋敷神であったとのことです。
参拝者が多かったため、明治の初めに村持ちの神社となりました。

第六天とは「古事記」の「天地のはじまり」で第六番目に出現する「於母陀流神(おもだるのかみ)、阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)」です。
そのため、この神を人々は「第六天、第六天神」と言っていたようです。
第六天榊神社

古事記の「天地のはじまり」では五柱の神(別天神)が成った後に、次のように記載されています。

次に成りませる神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。
この二柱の神もまた、独り神成り坐して、身を隠したまいき。

次に成りませる神の名は、宇比地邇神。次に妹須比智邇神。
次に角杙神。次に妹活杙神〔二柱〕。
次に意富斗能地神。次に妹大斗乃弁神。
次に於母陀流神。次に妹阿夜上訶志古泥神
次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。

出典:古事記はじめ
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中野区にはかつて七つの天神社、八つの第六天社があったと言われており、
今ではその所在も不明なものがあるが、八第六のひとつがこれにあたる可能性があるとのことです。

中野区教育委員会の刊行している「中野の文化財No.3 まつりと講」には、
秋元家の「秋元平右衛門」の子孫にあたる人のお話が掲載されていました。

出典:中野の文化財No.3 まつりと講
この第六天は元来、秋元家の奉祀(ほうし)した屋敷神でした。
江戸期にはかなり大きな土地を持っていたので、その耕作地の片隅に
この天神をまつっていましたが、その後小作人たちが多くここに参拝するようになったので、
明治の初め、村持ちの神社とするようにしました。

東中野 第六天神社

東中野 第六天神社

 

 

 

 

 

 

また、東京神社名鑑には、下記のように書かれていました。

住古、一帯の地は、渺芒たる武蔵野平原で、田畑が開墾され、そのなかに一小陵があり、
樹木が鬱蒼と生い茂り、まことに神秘の境があった。
そこは、景行天皇の御宇日本武尊が東夷征討のみぎり駐輦し、
大神を奉斎した旧跡と伝えられている。
のち、里人が浅草の第六天神宮より大神の御分霊を迎え、一祠を創建した。
これが当社の創祀である。
古来より、榊神社の兼勤の社として、祭祀が行われている。
・戦後の歩み
戦災により社殿が焼失したが、戦後ただちに復興に着手し、本殿を再建した。



東中野 第六天神社 由緒碑

【由緒碑】

由緒碑には下記のように書かれています。

第六天神社
御祭神 天神第六代坐榊皇大御神
面足尊 おもだるのみこと
惶根尊 かしこねのみこと

御神徳 諸産業繁栄 安産子育の神
月次祭 毎月十八日

宮司 安 忠正 敬白
総代 東 義雄 書

御由緒
悠久の昔江戸蔵前の第六天神宮(榊神社)御分霊を奉斎
古来より第一 の別宮として尊祀せられて居ります

 

東中野 第六天神社 由緒碑 裏

【由緒碑】 裏

第六天神社石碑建立記念
(氏名多数)
昭和三十九年二月四日
東京都中野區
川添町
氷川町
第六天神社世話人会一同


東中野 第六天神社 道標 右

【道標】
是より右ぞうしがや道

東中野 第六天神社 道標 左

【道標】
左堀之内

戦災を受けているため、戦前の石造物は、昭和二年奉納の燈籠一対と、この境内入口にある道標(年銘不明)のみとなっています。