祭神 | 菅原道真(すがわらのみちざね) |
ご利益 | 学業成就、合格祈願、五穀豊穣、雷除け、他 |
祭儀 | 例大祭 五月二十五日 |
参拝形式 | 二拝二拍一拝 |
総本社 | 北野天満宮(きたのてんまんぐう)【京都府京都市上京区】 |
住所 | 中野区中野5-8-1 |
摂社 | 天神伏見稲荷神社(てんじんふしみいなりじんじゃ)、宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) |
中野5丁目にある北野神社は、近隣の人々から「打越天神」と呼ばれています。
東側(社殿右側)に観音講塔(かんのんこうとう)と、庚申塔(こうしんとう)2体があり、西側(社殿左側)に摂社の天神伏見稲荷神社(てんじんふしみみいなり)があります。
如意輪観音講塔と庚申塔2体は元禄年間に立てられました。
現在の場所に移される以前は神社前の道路際にあり、
青梅街道から新井薬師に参詣する人々の道標になっていたとのこと。
中野の文化財No.3「まつりと講」には、古老のお話が記載されていました。
元禄の頃から本田侯の下屋敷があり、このお屋敷に働く人たちの子女のために学問の神様としてお祭りされたということです。
しかし、くわしいことはわかっていません。
また、江戸時代に馬捨て場があって、この動物たちの霊を鎮めるために神社をつくったとも伝えられています。
【観音講塔】如意輪観音像(元禄13年11月/1700年)、
【庚申塔】青面金剛像(元禄14年10月 /1701年)、
【庚申塔】青面金剛像(元禄14年10月/1701年)。
(三体とも中野区の登録・指定文化財)
これらは打越村の信仰や村落構造を示すものと考えられています。
☆講塔とは、信仰でつながった村落内での構成員である講の結成を祝って立てた石造物のことです。
この講塔は如意輪観音を信仰する人々の講があったことを示しています。
☆「打越」とは、昭和初期の地番改正までのこの辺りの一帯の地名です。
中野5丁目の東側は昭和41年(1966)まで、この神社を由来として天神町と呼ばれていました。
※中野区登録文化財・指定文化財一覧
※中野区の町名 – Wikipedia
※元禄
※庚申塔
☆立て札の内容は下記に記載します。
【天神町の石仏】
ここに立つ青面金剛像と如意輪観音像は、いずれも元禄期に彫刻・造立されたものです。
刻文の「打越村 願主 鈴木 保坂」は、古くからこの地に住んでいた村人と思われます。その人びとが中心になって、庚申講や如意輪観音講をつくり近くの村人を一堂に集めて、
講の座をいくども重ねたことでしょう。江戸時代も元禄頃になると、伝統的な信仰行事もしだいに民衆化され、
いつしか娯楽的な面が強くなっていったようです。この三体の石仏は、以前、この神社前の道路わきにあったといわれ、
講の結成を記念し、あわせて青梅街道から新井薬師へ参拝する人びとの安全を祈り、
道しるべもかねて造立されたようです。人々の安全を祈ることにより、その功徳で自分たちが幸せになれるように願った、
当時の村人たちの素朴な信仰をうかがうことができます。昭和五十七年二月
中野区教育委員会
●摂社の天神伏見稲荷神社
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
☆摂社の天神伏見稲荷神社にある手洗い鉢には万延2年(1861)の紀年名が記されています。
◆北野神社(打越天神)Google MAP